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これらは、「週報」の裏面に掲載されたものです。


「破れ口に立つ者」

 「わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった」(エゼキエル書22章30節)。

 「破れ口」とは、城壁の決壊箇所のことです。当時の都市は、町全体を城壁で囲んで、敵からの攻撃に備えました。敵は、何とかして城壁に穴を開け、それを押し広げて、中へ入ろうとするのです。ですから、小さな破れ口でも、すぐに修理をしなければ、町は滅んでしまうのです。
 神様は、預言者エゼキエルを通して、イスラエルには、破れ口を修理する者がいないと言われます。これは、実際の城壁の破れ口ではなく、人々の心の破れ口を意味しているようです。当時の人々は、みことばを守らず、安息日を無視し、不正を働き、貧しい人たちをしいたげていたと言われています(23〜29節参照)。そして、誰ひとり、この危機的な状況を修復しようとする人はいなかったというのです。
 かつてアブラハムは、滅びが迫るソドムとゴモラの町のために、執り成しの祈りをささげました(創世記18章22〜33節参照)。また、モーセは、金の子牛を作って神様に背く民のために、自分のいのちを差し出して、執り成しの祈りをささげました(出エジプト32章30〜34節参照)。彼らは、まさに破れ口に立って、破れ口を繕った人たちです。
 危機的な状況を見て、知らぬ顔をしたり、ただ「危機だ」と騒ぎ立てる人もいます。しかし、神様は、私たちが、破れ口に立って執り成す人になることを求めておられるのです。



「人間としての謙虚さ」

 「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか」(詩篇8篇3〜4節)。

 夜空を見上げ星を眺めていると、宇宙の広大さとその神秘性に圧倒される感覚を、多くの人が感じることでしょう。しかし、天地万物を造られた神様を信じているダビデにとっては、それは、取りも直さず神様の存在の偉大さに圧倒される経験でもあったのです。そして、神様の偉大さを知ればこそ、人の存在の小ささをつくづくと感じたのです。イスラエルの王座にさえ上りつめたダビデでさえも、神様が小さな人間を顧みて下さるその不思議を噛み締めながら、神様の前に自らを低くし、神様をほめたたえているのです。
 このダビデの感覚は、非常に謙虚な感覚だと思います。しかし、現代人は、このダビデが抱いたような、神に生かされている人間としての謙虚さを、どこか曇らせて生きているのではないでしょうか。この謙虚さを見失い、人の持つ「力」や「知恵」や「技術」を誇って来たのではないでしょうか。自然に抗うような仕方で、人工的な建造物をたくさん作って、それで街が守れるかのように思ったり、危険で未熟なエネルギーにより頼んで、生活を便利にすることを追い求めたりして生きて来たのかも知れません。
 東日本大震災から、間もなく四年が経とうとしています。あの大震災が私たちに問いかけたことのひとつは、この神に生かされている人間としての謙虚さを取り戻すことだったのではないでしょうか。



「主を待ち望む者」

 「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる」(イザヤ書40章31節)。

 「待ち望む」と訳されている言葉は、珍しい言葉です。創世記の天地創造の物語の中に、「神はまた言われた、『天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ』」(創世記1章9節)という言葉があります。ここで、「集まり」と訳されている言葉と同じ言葉です。「待ち望む」とは、私たちの心を、ひとつのところに集めることを意味しているということだと思います。私たちの「主」である方に、ひたすら心を集中して行くこと、それが、「待ち望む」ことなのです。
 主を待ち望む者は、「わしのように翼をはって、のぼることができる」と言われています。意外に思えるかも知れませんが、鳥は、向い風に向かって、羽ばたきます。追い風では、十分な浮力が得られないからです。向い風に羽ばたき、そして、やがて上昇気流を捉えて、空高く舞い上がって行くのです。私たちの毎日の生活は、追い風ばかりとは限りません。しばしば向い風(逆風)に悩まされます。けれども、そこで私たちが心を定め、神様に集中して、向い風に向かって羽ばたくならば、その向い風が、やがて私たちを大空へといざなってくれるのです。
 「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる」。今日からアドベント(待降節)に入ります。お互いに主を待ち望むことを身につける時にしたいと思います。



「主客転倒を正す」

 「あなたがたは転倒して考えている。陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。造られた物はそれを造った者について、『彼はわたしを造らなかった』と言い、形造られた物は形造った者について、『彼は知恵がない』と言うことができようか」(イザヤ書29章16節)。

 聖書の中には、陶器師と粘土や作品をモチーフにした譬えが、いくつか記されています。このイザヤ書の言葉もそうです。神様は、陶器師であり、私たちは、粘土であり、陶器師の手によって作られた作品なのだと言います。これは、聖書の根本的な教えです。ところが、人は、とかくこの主客を転倒させてしまいます。被造物である私たちが、いつの間にか創造者である神様よりも優位に立ち、神様に向かって、好き勝手な注文をするようになります。「彼は知恵がない」という言葉を、新改訳聖書は、「彼はわからずやだ」と訳しました。時に人は、神様をまさに「わからずや」扱いするものではないでしょうか。「神様は、私が求めているものを全然分かっていない」 と言い、神様のなさることに、「遅過ぎる」とか、「早過ぎるとか」とか、挙句の果てには、「違う、そうじゃない」と、上から批評するような立場に身をおくのです。
 しかし、聖書は、明瞭に「あなたがたは転倒して考えている」と語ります。この主客転倒を正すことが、実は幸いへの鍵なのです。神様の手の中に自分をおくところから、まことの幸いの道が開かれて行くのです。ですから、折々にこの主客を点検しながら、生活したいと思います。



「わたしの時は…」

 「しかし、主よ、わたしはあなたに信頼して、言います、『あなたはわたしの神である』と。わたしの時はあなたのみ手にあります」(詩篇31篇14〜15節前半)。

 現代社会は、いつでも必要なものが手に入るようにと、24時間営業のコンビニを生み出しました。すぐにどこへでも連絡が取れるようにと、携帯電話や電子メールを生み出して来ました。交通機関は、絶えずスピードアップに挑み、時間短縮に余念がありません。このような人の営みは、さらに加速して行くでしょう。確かに「時」は、限られた人生を生きる私たちにとって貴重なものです。しかし、まるで時を支配するかのような営みの一方で、私たちは、逆に時間に追われたり、わずかな時を待つことさえ、難しくなってしまっているのではないでしょうか。  詩人は、「わたしの時はあなたのみ手にあります」と詠っています。この時、詩人は、決してのどかな毎日を送っていた訳ではありません。他人に責め立てられ、追われる状況にありました(15節後半参照)。「少しでも早く助けて欲しい」と思うような状態でした。けれども、詩人は、神の「時」に、すべてを託そうと言うのです。  これは、現代人にとって、とても難しい生き方かも知れません。しかし、本来、「時」の支配者は、私たちではありません。神様の御手の中にこそ、私たちにとっての最良の時があるのです。ですから、私たちも、この詩人の言葉を、しっかりと心に焼きつけたいと思います。「わたしの時はあなたのみ手にあります」と。



「思索も努力も」

 「そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである」(コリント人への第一の手紙9章26〜27節)。

 この手紙を書いたパウロは、「炎の伝道者」と称されるほど、熱い魂を持って、伝道に生涯をささげた主の器でした。しかし同時に、パウロは、「思索」の人でもありました。「わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない」と言っているように、目標や目的をしっかりと捉え、対峙すべきことをしっかりと弁える冷静な思索の人でもあったのです。さらに、彼は、「努力」の人でもありました。「自分のからだを打ちたたいて服従させるのである」というほど目標に向かって節制に努めた努力家でもあったのです。
 思索や努力は、決して情熱と対立するものではありません。むしろこれらが一体となる時、大きな力を発揮するものです。たとえ熱い思いがあっても、思索を欠いては、方向を間違ってしまいます。努力を欠いては、最後まで成し遂げることはできないでしょう。熱い思いを抱きつつ、めあてをしっかりと把握して、それに向かって努力する時に、私たちは、真になすべきことができるようになるのではないでしょうか。
 とは言え、私たちは、信仰者として、祈りつつ思索し、神様の力を受けつつ努力するのです。自分の内なる力に対する信頼ではありません。それもまたしっかりと覚えていたいものです。



「事なきことは幸い?」

 「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる」(箴言14章4節・新改訳)。

 かつて牛や馬を農耕に使っていた時代には、飼葉を与え、小屋を掃除し、糞尿の始末をするのは、毎日欠くことのできない作業だったことでしょう。そして、それは、汚れにまみれる仕事であり、手間のかかる仕事であったに違いありません。まさに3Kです。けれども、その世話をする「牛の力によって収穫は多くなる」のです。
 何事かを成そうとしたら、そこには、手間隙が伴うものです。骨の折れる大変なこともあるかも知れません。面倒なことを抱えるかも知れません。煩わしいこともあるかも知れません。けれども、それが、大きな実りをもたらします。何もしなければ、何も起こらないのです。でも、もし私たちが、アクティブに何かを企てようとしたら、必ず一つ二つの問題は起こって来るものだと思うべきではないでしょうか。大きな実りを期待するなら、必ず一つ二つの面倒は抱えるものなのです。
 「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる」。私たちは、きれいな飼葉おけを眺めて満足している訳には行かないのではないでしょうか。「事なきこと」を、ただ喜んではいられないのです。問題を恐れずに、勇気をもって、挑戦すべきことがあるのではないでしょうか。そこに、神様が、きっと働いて下さるのです。



「それも、これも」

 「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない」(マタイによる福音書23章23節)。

 「はっか、いのんど、クミン」などは、料理の薬味や香料に使われる薬草(ハーブ)です。当時、これらは、大麦畑や小麦畑の片隅で作られていました。律法学者やパリサイ人たちは、もちろん大麦や小麦といった収穫に対する十分の一を神様にささげていました。それに加えて、畑の片隅で作られている薬味のような言わば小さな収穫に対しても、十分の一のささげ物をきちんとしていたということです。つまり、彼らは、それだけ「厳密」に、十分の一のささげ物をしていたのです。
 しかし、イエス様は、律法学者やパリサイ人たちが、それだけ厳密に十分の一のささげ物をしながら、隣人に対する「公平とあわれみと忠実とを見のがしている」と批判されています。私たちも、彼らを笑うことはできないのではないでしょうか。イエス様は、「それもしなければならないが、これも見のがしてはならない」と教えて下さいました。神様を愛するということと、隣人を愛するということは、決して分離できないということです。渾然一体となっているのです。私たちの心が、どちらか一方の両極端に留まることないように、「それもしなければならないが、これも見のがしてはならない」というイエス様の言葉を、しっかりと心に刻みたいものです。



「手を取って」

 「夜が明けて、み使たちはロトを促して言った、『立って、ここにいるあなたの妻とふたりの娘とを連れ出しなさい。そうしなければ、あなたもこの町の不義のために滅ぼされるでしょう』。彼はためらっていたが、主は彼にあわれみを施されたので、かのふたりは彼の手と、その妻の手と、ふたりの娘の手を取って連れ出し、町の外に置いた」(創世記19章15〜16節)。

 アブラハムの甥ロトが住んでいた町は、非常に退廃した罪の町で、神様のさばきが迫っていました。しかし、神様は、ロトとその家族とを救い出そうとされます。神様は、御使いを送って、彼らに町からすぐに出るようにと促すのです。ところが、ロトは、「ためらっていた」(16節)と書かれています。神様のさばきが近づいていることを、にわかには信じられな かったのでしょう。それでも、神様のあわれみは尽きません。神の御使いは、ためらうロトと、彼の妻と娘たちの手を握りしめて、大急ぎで町の外まで連れ出すのです。彼らは、御使いに手を引かれて、救い出されたのです。
 私たちの信仰は、本当につたないものです。ロトのように誰もが霊的な鈍さを抱えているのではないでしょうか。しかし、そのような私たちを、神様が、「手を取って」引いて下さるからこそ、私たちは、信仰生活を続けることが許されているのです。ためらう私たちの「手を取って」下さる神様のあわれみによって、私たちは、いつも守られているのです。
 2008年が始まりましたが、この年も、神様に手をしっかりと握られていることを忘れずに、教会生活をお互いに続けて行きましょう。




「人となられた神」

 「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネによる福音書1章18節)。

 クリスマスに起こったこと。それは、神が人となって、この世界に降りて来られたということです。それが、イエス・キリストに他なりません。イエス様は、「人となられた神」です。ですから、イエス様を知ることは、神様を知ることなのです。神を直接見た人はいません。私たちは、神を具体的に知る術を持っていません。しかし、「ひとり子なる神(イエス・キリスト)だけが、神をあらわした」と記されているように、私たちは、このイエス様という方を通してのみ、具体的に「神」を知ることができるのです。
 イエス様が、話された一つ一つの言葉が、神を指し示しているのです。イエス様が、なされた一つ一つの行動が、神を指し示しているのです。イエス様が、どのような人のところへ赴き、そこで何を語り、そこで何をされたのか。そうしたことの一つ一つが、極めて具体的に神の「思い」をあらわしているのです。だとすれば、私たちは、お互いに自分勝手な神のイメージを打ち砕いて、聖書に記されたイエス様の姿にこそ、神を学んで行かなければなりません。イエス様を、もっと知る必要があるのです。イエス様を知ることを、もっと深めて行く必要があるのです。
 クリスマスが、心新たに聖書を読み始める機会となりますように。



「光を見上げて」

 「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」(ヨハネによる福音書1章9節)。

 「すべての人を照すまことの光」とは、言うまでもなく「イエス様」のことを指しています。「まことの光」であるイエス様に、いつも照らされて生きるのが、私たちの信仰生活なのではないでしょうか。
 光に照らされると、必ず「影」が出来ます。影は、光が強ければ強いほどに、かえって濃くなるものです。もし私たちが、光の方に顔を向けているならば、自分の影は視界に入りません。しかし、光に背を向けるならば、私たちは、自分の影を見ることになります。
 人は、しばしば自分の心の醜さや貧しさを思い知らされ、自分に嫌気がさす時があります。そのような時は、光に背を向けて、うなだれて自分の影を見つめている状態なのかも知れません。しかし、そのような時にこそ、思い切って向きをかえて、まことの光であるイエス様を見上げたいものです。イエス様は、いつも私たちを「十字架のゆるしの光」で照らして下さる方です。私たちは、自己嫌悪や自己憐憫を後にして、イエス様のゆるしの光の中で、何度でもやり直して生きることに招かれているのです。
 今年も、アドベントがやって来ました。「すべての人を照すまことの光」が与えられている恵みを日々思いながら、クリスマスに向けて、お互いに心を整えて行きたいと思います。



「それぞれに」

 「イスラエルの人々はそのようにして、ある者は多く、ある者は少なく集めた。しかし、オメルでそれを計ってみると、多く集めた者にも余らず、少なく集めた者にも不足しなかった。おのおのその食べるところに従って集めていた」(出エジプト記16章17〜18節)。

  エジプトでの奴隷生活から解放され、荒野の旅を続けるイスラエルの民に、神様は、毎日天から「マナ」という不思議な食べ物を降らせて、彼らを養って下さいました。イスラエルの人たちは、その日に必要な分を、それぞれの手で集めなければなりませんでした。彼らの中には、大人もいれば、子どももいます。大食漢もいれば、少食な人もいたでしょう。ですから、「ある者は多く、ある者は少なく集めた」のです。しかし、「多く集めた者にも余らず、少なく集めた者にも不足しなかった」とあるように、それぞれに必要な分量が、過不足なく与えられていました。
 人は、時々、単純な平板化をもって、「平等・公平」と考えることがあります。でも、神の恵みは、そのような均一的なものではありません。一人一人それぞれに違った存在です。必要としているものもそれぞれに異なります。そして、神様は、誰よりも、そのことを知っておられて、その上で、「私の恵み」を備えて下さる方なのです。
 だからこそ、私たちは、神の恵みを比較する必要もありませんし、大胆に必要なものを求めることができるのです。




「たゆまずに」

 「兄弟たちよ。あなたがたは、たゆまずに良い働きをしなさい」(テサロニケ人への第二の手紙3章13節)。

 人は、何かに感動し、心動かされて「良い働き」を始めることがあります。向上心から、一念発起して「良い働き」を始めることもあります。正義感に促されて、居ても立ってもいられずに「良い働き」を始めることもあるでしょう。しかし、このみことばの鍵は、「たゆまずに」というところにあるように思います。
 どのような動機にしても、「良い働き」には価値があります。でも、それを続けて行く中には、必ずと言ってよい程に、最初の動機が振るわれ、最初の熱意が揺さぶられ、続けることを断念したくなるような時が、一度は来るのではないでしょうか。結果が思うように出ない時、心身の状態が思わしくない時、大きな障害が横たわる時、働きが報われない時、協力や理解が得られない時など……。誰でも挫けそうになってしまいます。そこで、「たゆまずに」という言葉の重さが身にしみます。やはり「良い働き」は、神様の助けなしには、決してやり通すことができないものなのではないでしょうか。神様の力を願い求める祈りなくしては、決して続けることができないのです。
 私たちは、神様に頼ることを忘れないで、「たゆまずに」、歩みたいものです。「たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」(ガラテヤ6章9節)と、約束されていのですから。



「なくてならぬものを」

 「主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられる」(詩篇127篇2節b)。

 イソップ童話の中に、「父親とふたりの娘」という作品があります。一人の娘は、農夫と結婚し、もう一人の娘は、陶芸家と結婚しました。ある時、父親が、 娘たちの様子を案じて訪ねて行きます。まず、最初に農夫と結婚した姉の所へ行きます。姉は言います。「うまくやっているわ。でも、もっと雨がたくさん降って欲しいの。野菜にたっぷりと水をあげたいから」と。次に陶芸家と結婚した娘の所に行くと、彼女はこう言います。「うまくやっているわよ。でも、もっとお天気が続いて欲しいの。陶器がよくかわくようにね」。父親は、姉娘が雨を望み、妹娘が晴れを望むのをみて、「どっちを願えばいいのだろう」と困ってしまう、そういう内容です。
 人が望むものは、その立場によっても異なるものです。時には、この童話のように、それが正反対の望みになることもあります。そして、人は、それぞれ自分の望みがかなわないと、心穏やかではいられないものです。しかし、私たちは、信仰によって、「主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられる」という神の約束を信じたいと思うのです。
 人間の父は、「どっちを願えばいいのだろう」と迷ってしまうかも知れません。でも、天の父は、私たち一人一人にとって、最善となることを知っておられ、それを備えて下さるのです。「なくてならぬものを与えられる」神様を見上げて行きましょう。




「あなたはわたしのものだ」

 「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」(イザヤ53章1節)。

 サン=テグジュペリの名作「星の王子さま」の中に、このような言葉が出て来ます。「あんたたちは美しいけど、ただ咲いているだけなんだね。あんたたちのためには死ぬ気になんかなれないよ。そりゃ、ほくのバラの花も、なんでもなく、そばを通っていく人が見たら、あんたたちと同じ花だと思う かもしれない。だけど、あの一輪の花が、ぼくには、あんたたちみんなよりも、たいせつなんだ。だってぼくが水をかけた花なんだからね」。星の王子様が、庭に咲き誇る五千本の美しいバラを見ながら、自分の星に残して来た一輪のバラを想い出して言った言葉です。見た目には、どれも同じように美しいバラの花ですが、星の王子様にとっては、「自分の育てたバラ」が、何にも優って特別な存在だというのです。
 神様の目に私たちも同じです。私たちの本当の価値というのは、自分自身の中にある何かに因るのではなく、神様によって、「わたしのもの」として愛され、イエス様のいのちをもってあがなわれる程に、大切にされていることにあるのです。しばしば「自分探し」という言葉が聞かれますが、人は、神様の心の中に映し出された自分の価値を見出すことによってこそ、真の意味で自分自身を知るのではないでしょうか。神様は、今日もあなたに言われます。「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」。




「口のところまでいっぱいに」

 「そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。イエスは彼らに『かめに水をいっぱい入れなさい』と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた」(ヨハネによる福音書2章5〜7節)。

 この言葉は、「カナの婚礼」と呼ばれる物語の中に出て来ます。ある婚礼の席で、客人に振舞うぶどう酒がなくなってしまいます。関係者にとっては面目に関わる一大事ですので、イエス様に助けを求めました。イエス様は、給仕の僕たちに、「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。彼らは、何が起こるのかも分からぬままに、かめに水を入れて来ます。そして、その水が、やがてイエス様の奇跡によって、上等のぶどう酒に変えられて行ったという物語です。
 ここで、給仕の僕たちは、かめの「口のところまでいっぱいに」水を入れて来ました。「かめに水をいっぱい入れなさい」と命じられたのですから、当然と言えば当然かも知れません。しかし、意外と人は、こういう場面で、「どうして水を汲むんですか?」とか、「それに、どんな意味があるんですか?」と言ってみたり、重いかめを運ぶのは大変ですから、ほどほど八・九割の水を入れて、戻って来たりするものではないでしょうか。そう考えると、イエス様に言われた通りに、何も言わず、かめの口のところまで、なみなみと水を入れて来た給仕の僕たちの「忠実さ」は、決して当たり前のことではないように思うのです。そして、私たちもまた、イエス様への信頼に基づいたこの「忠実さ」を、忘れてはいけないのではないでしょうか。



「交わりの中で読む」

 「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである」(ペテロの第二の手紙1章20節)。

 宗教改革の偉業の一つは、「聖書の母国語への翻訳」にあります。当時のカトリック教会は、世界中でラテン語の聖書を使っていました。当然、ラテン語が分からない人たちは、聖書を読むことはできなかったのです。それに対して、マルチン・ルターは、「すべての人が自分で聖書を読めるように」と、聖書を、直接、原典(ヘブル語旧約聖書とギリシャ語新約聖書)から、ルターの母国語であるドイツ語へと翻訳をしました(1534年)。それは、すでに発明されていた活版印刷の技術によって、国中に拡がって行きました。やがて聖書は、様々な言語に翻訳されるようになり、今も翻訳され続けています。
 プロテスタント教会は、各自が聖書を自分で読むことを、強調して来ました。それは、教会(教皇)の解釈のみを絶対としていた当時のカトリック教会に対する批判があったからです。神様は、聖書を通して、一人一人に語りかけて下さいます。ですから、私たちも、聖書を自分で読むことを大切にして行きたいものです。しかし、そうしたプロテスタント教会のあり方にもまた過誤の危険があります。聖書の読みを個人化してしまう危険です。自分勝手で独りよがりな読み方に陥ってしまう危険です。やはり聖書は、「教会の交わりの中で読む」ことが必要です。他の人の聖書の読みに聞く姿勢が大事です。「独りで読みつつ、交わりの中で読む」。そのように、私たちは、聖書を大切に読み続けて行きましょう。




「思い通りにならない時も」

 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ人への手紙8章28節)。

 フルウィツの「ヘブライの物語」の中に、こういうお話しが出て来ます。あるラビが、荒野を旅していました。やがて夕暮れが近づき、小さな村を見つけます。彼は、そこに泊めてもらおうと村人たちに頼みますが、誰も泊めてはくれませんでした。そこで、彼は、村の近くで、仕方なく野宿をすることにします。やがて陽が沈み、彼は、ランプを取り出します。ところが、彼が火を点けようとすると、その度に強風が吹き付け、すぐに火を吹き消してしまいます。何度やっても点きません。彼は、とうとう諦めて、早くに眠ることにしました。やがて朝になり、彼は、旅支度を整えて歩き始め、そして、昨日の村を通りかかります。ところが、村に入って行くと、何とその村は昨晩、盗賊に襲われ、荒れ果てていたのです。彼は、思いました。「もしもここに泊まっていたら、どうなっていただろう。もしもランプが煌々と点いていたらどうなっていただろう」。そして、気づくのです。「昨晩は、野宿する羽目になり、ランプにまで見放されて、さんざんな夜だと思っていていたが、実は守られていたのだ」と。
 自分の思い通りにならないことが重なると、誰でも滅入るでしょうし、イライラもします。しかし、もしかしたら、その思い通りにならないことの中にも、神様の深い守りが隠されているのかも知れません。私たちは、最善以外のことをなさらない神様の愛を信じたいと思うのです。



「神のなされるわざを…」

 「人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」伝道の書3章11節)。

 イタリアの物理学者ガリレオ・ガリレイは、コペルニクスのたてた地動説を実証したことで、宗教裁判にかけられました。彼は、1633年、ローマ教皇庁検邪聖省による裁判で、「汝は、大地が動き世界の中心にないという聖書に反する誤った説を抱き信じた。故に有罪を宣告する」と言い渡され、異端者として終身刑に処されたと云われています。この判決の後で、彼が、「それでも地球は動いている」と語ったという逸話は、余りにも有名です。
 これは、私の想像ですが、ガリレオを有罪とした人たちの中には、ガリレオの主張が、神と聖書への冒涜だと、純粋かつ熱心に信じていた人たちがいたのではないかと思います。でも、その純粋さや熱心さが、時に大きな誤りを生み出します。
 信仰の「確信」は、極めて重要です。信じるものがあやふやならば、信仰生活は成り立たないでしょう。しかし、同時に信仰者は、「人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」という思いを、心の中に持ち続けることも大切です。それがないと、人は、つい神の如くに、自分がすべての真理を握っているかのように、他人をさばいてしまうからです。
 確信を持ちつつ、尚、神は、私の確信よりも遥かに大きいということを忘れずに、かろやかに生活したいものです。




「パンを水の上に」

 「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである」(伝道の書11章1節)

 有名な宗教改革者マルチン・ルターは、「たとえ明日が世界の終わりの日であっても、なお私はリンゴの木を植える」という言葉を残したと云われています。明日が世の終わりの日ならば、「何をしても無駄になる」と考えてしまうのが私たちです。でも、ルターは、「私たちのすることは、何一つ、神様の前に無駄になることはない」という信仰を持っていたのです。そのような信仰に、私たちも立ちたいと思います。
 この「あなたのパン」というのは、「とても大事なもの」を指す譬えだと云われます。パンは、毎日の生活に欠くことのできないものであり、いのちを支える食糧です。そのような大事なものを、「水の上に投げよ」と言われています。新共同訳聖書では、「水に浮かべて流すがよい」と訳されています。これは、明らかに「無駄な行為」です。「浪費」とでも言うべき行動です。しかし、私たちの人生には、このあたかも無駄にしか思えないようなことを、しなければならないような場面があるのではないでしょうか。
 そのような時、私たちは、「どうしてこんな目に」と嘆くかも知れません。ところが、聖書は、「多くの日の後、あなたはそれを得るからである」と言っています。無駄にただ失ってしまったかのようなことが、やがて自分に豊かな恵みとなって帰って来ることがある。この神様の約束を信じたいものです。



「その刃をみがかなければ」

 「鉄が鈍くなったとき、人がその刃をみがかなければ、力を多くこれに用いねばならない」(伝道の書10章10節)。

 この聖書の言葉を物語風にすると、こんな感じでしょうか。「昔ある山間の村に、とても働き者の男が住んでいました。彼は、森の木を切って、それを生業にしていました。朝から晩まで、一生懸命に働きました。ところが、彼は、道具の手入れには、無頓着な人でした。長い間使っている斧は、刃こぼれが目立ちます。そこで、友人が見かねて進言しました。『そろそろ斧の刃を研いだ方がいいよ。そうしたら、今の二倍は仕事がはかどると思うよ』。ところが、彼は、言いました。『とんでもない! 今が一年で一番忙しい時なんだ。斧を研いでいる暇なんてないよ』」。
 滑稽な愚かしい話のようですが、今、真っ先にすべき大切なことを、つい後回しにして、ただ忙しく動き回っていることが、私たちには、あるように思います。私たちの心は、とかく目先の必要に奪われやすく、そのために優先順位を誤りやすいものなのではないでしょうか。そして、その優先順位の誤りが、意外と大きな損失につながっていることにさえ、なかなか気づけないものでもあります。
 だからこそ、何が一番大切なのかを、お互いに問い返しながら生活したいと思うのです。神様をしっかりと礼拝し、心を研ぎすまして、新しい一週間を始めましょう。



「主は彼のうしろの戸を…」

 「すなわち命の息のあるすべての肉なるものが、二つずつノアのもとにきて、箱舟にはいった。そのはいったものは、すべて肉なるものの雄と雌とであって、神が彼に命じられたようにはいった。そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた」(創世記7章15〜16節)。

 ノアは、箱舟を完成させました。そして、ノアとノアの家族、つがいの動物たちが、箱舟に乗り込んだのです。聖書には、「そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた」と書かれています。
 何気ない一言ですが、ここには、神様の思いやりが表わされているのではないでしょうか。どうでしょう。私たちは、「うしろの戸」を、できるだけ自由に開けられるようにしておきたいと思うのではないでしょうか。「退路を確保しておきたい」、「引き返したり、思い返したりする自由を、いつまでも残しておきたい」、そのように思うものです。しかし、もし「うしろの戸」が簡単に開くものならば、ノアもまた、不安をかき立てられ、決意が揺らいだり、引き返したくなったかも知れません。神様は、移ろいやすい人の心をあわれんで、「うしろの戸」を、自ら閉ざして下さったのではないでしょうか。
 出口や逃げ道の見えないような状況に置かれると、誰でも不安になります。焦りも感じます。でも、人生には、退路を残しては越えられないものもあります。退路が断たれたかのように見える時にこそ、ノアが、箱舟によっていのちを救われたように、私たちは、神様の大きな懐の中に、しっかりと守られていることを信じたいと思うのです。



「一歩一歩」

 「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる」(詩篇37篇23節・新共同訳)。

 「のろまなローラー」(小出正吾作、1967年)という絵本があります。ローラ−車がデコボコ道を平らに踏み固めながら、ゆっくりと進んで行きます。ところが、後ろから大きなトラックがやって来て、「邪魔だよ、どいて」と叱りながら、追い越して行きます。立派な乗用車もやって来て、「のろまなローラーくん」と笑いながら、追い越して行きます。小さな乗用車までもが、「その調子じゃ、日が暮れちゃうよ」と馬鹿にしながら、追い越して行きます。でも、ローラー車は、相変わらずゆっくりと、道を踏み固めながら進んで行きます。やがて、デコボコの坂道の途中で、追い越して行ったトラックや乗用車が、パンクして立ち往生していました。でも、ローラー車は、そのデコボコの坂道を平らにしてあげます。そして、トラックや乗用車は、また軽やかに走り出して行くというストーリーです。どこまでもマイペースなローラー車の姿が、とても清々しく描かれた作品です。そして、一歩一歩を踏み固めながら生きることのたくましさを教えられる作品です。
 神様は、私たちの「一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる」方です。余りにも周囲のことに気を奪われたり、将来を見通すことに躍起になっていると、不安は増える一方です。神様が、私たちの今日の一歩一歩を確実に守って下さることを信じましょう。神様を見つめて、ローラー車のように、おおらかに生活したいものです。



「あなたがどこへ行くにも」

 「あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」(ヨシュア記1章9節c)。

 正岡子規の俳句に、「花桐の琴屋を待てば下駄屋かな」という一句があります。一本の「桐」の木が、将来は、「琴屋」に買われ、琴の胴として、美しい音色を響かせることを期待し願うのです。ところが、いざ買われて行った先は、「下駄屋」であったということです。人生は、願い通りにはならないものだということを、子規は、この句に詠んだのでしょう。
 しかしまた、桐の下駄というのは、材質も柔らかく、吸湿性にも優れているので、最高に履き心地の良い下駄なのだそうです。琴の胴にはなれなくとも、最高の下駄として、人の足を守るのもまた、桐冥利(?)に尽きるというものではないでしょうか。
 確かに人生には、思い通りに運ばないことが、たくさんあります。しばしば不本意なことがあります。でも、そこで、くさらずに「最高の下駄になろう!」と思えるかどうかが、大きな転換点になります。何よりも、聖書は、「あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられる」と約束しています。だから、「恐れてはならない、おののいてはならない」と語ります。この言葉を信じて、どのような時、どのような場所、どのような環境にあっても、そこに主が共に働いておられることに期待して、積極的に生活したいものです。「あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。



<文責;福田雅祥>


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